「ミサンザイ考」の考え方
orig: 2008/09/21

別途「ミサンザイ考」を挙げたが、これの背景にある考え方を書き留めておこう。

記紀の記事、特に古いもの、は

・家系毎に異なった伝承がひきつがれてきている。中には同一の根から派生したものもあるだろう。

・それら伝承に於ける登場人物の名前は伝承ルートによって異なった場合があろう。

・伝承においてそれぞれのエピソードには必ずしも体系化された時系列があるわけではないだろう。(参照:三浦佑之著『古代叙事伝承の研究』勉誠社)

・従って、なんらかの規範(私の場合はコトバの言語学的考察)のもとで、断片的な、適当に時系列を与えられた伝承片たちがもう少し整理され、再統合できる可能性があろう

・上のような視点がなければ、「ミサンザイ考」などはナンセンスである。例えば三島溝咋と仁徳天皇が同時期の人であることになりそうな立論は、通常行われている歴史談義では受け入れられないであろう。

・言語的な規範、と大言壮語したが、結局は読み方を工夫して似たような音になった場合に同一人物、同一事象であろうか、とするものだ。しかし、この作業は、語呂合わせやコトバ遊びを「今」創作しようとしているのではない。昔の人がやった語呂合わせやコトバ遊びを検出しようと云う立場なのだ。

・例えば「みぞくひ」に「溝杭」を宛てて、
 その娘が溝(厠)で杭(男根)を挿された、
 それでその姫の名がセヤタタラ姫というのは そ矢を立てられた という意味だ
というのは、ある意味で正しい(だろう)。それは「みぞくひ」に発した古代人のコトバ遊びユーモアの解釈として、正しいだろう、ということだ。本当の原意は何か、それを難行苦吟してみよう、というのが私の立場だ。


「ミサンザイ考」
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