シキ・考

orig: 2004/01/07
rev1: 2005/06/06 色遣い・言い回し

「シキ」という語について考えてみる。まず、『時代別国語大辞典上代編』から幾つか拾っておく。
                   
「シキ」の「キ」が甲類のもの
しぎ鴫:(鳥の名)
しきたへ布栲:敷物にする栲(たへ)。しとね。ふとんの類。
しきなみ敷浪:絶え間なく寄せ来る浪。
しきまき重播:天ツ罪の一。一度まいた上にさらにまた種子をまくこと。
しきみしきい。門の内外や、室の内外を限ったりするため、下に敷く横木。・・・
しきみ山地に自生するもくれん科の常緑低木。・・
しきる重:たび重なる。敷クからの派生語であろう。
しきゐ座・席:すわるとき、下にしくもの。ござ・むしろの類。
       
「シキ」の「キ」が乙類のもの
しき磯城:建物を建てたり、斎場にしたりするために作り設ける一区域か。石城(シキ)の意とすれば、岩石をもって堅固につき固めたところをいうか。
しきしまの枕詞。ヤマトにかかる。かかり方未詳。
上に見るように、磯城(師木)の語義を考えるときに、「重なる、敷く」という意味合いを考えるのは(一応)間違いである、ということを知る。(一応、と書いたのは、母音に甲類乙類の別があった、というのは定説ではあるが、異論無しともしないため)

また、国語学の教えるところによれば、敷島の大和、と書くのは上代仮名遣いには反している、ということになる(敷、のシキのキは甲類である)。上代では、磯城島、志貴島、式島、之奇島、などの漢字が使われている。これらの「キ」は乙類を表している。

記紀、万葉集など奈良朝時代の文献で、甲類乙類の使い分けはかなり徹底している(だから、甲類乙類がある、という説が行われてきている。)しかし、それでも混乱があることはある。私が注目しているのは人名で「キ」に関して下記の混乱例があることである。

甲類乙類
アヂス伎タカヒコアヂシ貴タカヒコ
イスス岐ヨリヒメイス気ヨリヒメ
この他にも、ヤマト・トトビ・モモソ姫の「トトビ」の「トト」が「乙乙」である場合と「乙甲」である場合がある。何故このような混乱があったのかは憶測以上のことは述べることが出来ない。(例えば、どちらかが誤りだ、とか、非日本語の音写であるから甲乙弁別は不正確だった、など。)


そこで、「シキ」に就いては、もしや、アイヌ語の si-ki 大・茅 が関連してはいないか、ということに興味がある。これについては「アイヌの大国主・考2」に述べたので参照願う。

この考えは更に「ワチ」という語に関しての展望を開くことにもなっている。ワチ・考も参照願いたい。(最近、「日本」の源は「曰本」で、それは「ワチ・モト」を表したものではないか、と追跡中である。2005/05)

更に魏志倭人伝の「弥馬獲支」と「ワチ」の関連を考えたものもある。 「弥馬獲支」と「ワチ」


さて、以上は「磯城」を「シキ(乙)」と読む前提(一般的である)で話を進めてきた。同じ対象を「師木」とも書いている例があるので、両立可能は読みは「シキ」となるからであろう。

「磯城」は「イソキ」であった、ということはないであろうか。

磯城、という地名は神武期、欠史八代、崇神、垂仁期に渡って伝えられている。ここで崇神の名は「みまきいりひこ・いにゑ」、垂仁の名は「いくめいりひこ・いさち」と読んで来た。「いにゑ」「いさち」の語頭の「い」は、漢字では「五十」と書かれているものと「印」「伊」と書かれているものがあり、両立可能な読み方として「い」が採用されてきてたものであろう。

「五十」は本来は「イソ」と読んでいたのではないか、という指摘をしている(拙著『初期天皇后妃の謎』)。両天皇とも皇宮の所在地は「シキ」である。

「磯城」を「イソキ」と読み、「五十」を「イソ」と読めば、天皇名の要素とその宮地の名が一致するのである。

これが原点だったのではなかろうか。そして「イソ」の意味は「海山の『幸』」のことである。「いにゑ→いそにゑ」はアイヌ語を援用すれば「幸・豊漁」であり「いさち→いそさち」は「幸・幸」である。(これも上記拙著に詳述した。)ここも参考になる。


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