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タイトル母の木
記事No1975
投稿日: 2010/11/19(Fri) 20:19
投稿者神奈備
谷川健一著『賤民の異神と芸能』のp.165から

 母の木
 
 賀茂真淵曰わく「いにしえは、樅栂などをすべておみの木と言ったが、やや後世になると、樅を真おみと云った。「まお」を約(ちぢ)むれば「も」である」。

 『日本書紀』「今おもの木と云ふのは訛(よこなば)れるなり」

 おもの木はおみの木からの転訛ではないか。

 折口信夫「母木の話は、その木の汁を採って肌に塗り、傷を治療したことが語られたのではないか」と云っているのは見過ごせない指摘である。つまり「母木」も「おもの乳汁」を出す木だったのである。

 適否はわかりませんが、上記が谷川さんの指摘の概要です。

タイトルRe: 母の木
記事No1976
投稿日: 2010/11/19(Fri) 21:22
投稿者大三元
神奈備さん

お知らせ有り難うございます。
>  賀茂真淵曰わく (中略)
>  おもの木はおみの木からの転訛ではないか。

伝説が「母」に関連づけているから、伝説が発生した時には「おも」になっていたと考えるべきだろう。もし伝説が「いにしへ」に発生し、その当時「おみ(の木)」と呼ばれていたのなら例えば「臣」を宛てて例えば「臣下」あたりに言及した伝説に成っていたはずだろう。{伝説が「母」に関連付いているから賀茂真淵説は当たらない}

>  折口信夫「母木の話は、その木の汁を採って肌に塗り、傷を治療したことが語られたのではないか」と云っているのは見過ごせない指摘である。つまり「母木」も「おもの乳汁」を出す木だったのである。

伝説は「木の洞に逃げかくれて難を逃れた」のであるから「傷」を負っているわけではない。強弁であろう。

なんちゃって・・・

タイトルRe^2: 母の木
記事No1977
投稿日: 2010/11/21(Sun) 09:59
投稿者神奈備
万葉集巻一

山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至(ゆ)きてよめる歌一首、また短歌
0322 皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷き座(ま)す 国のことごと
   湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と
   凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして
   歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上(へ)の 木群(こむら)を見れば
 → 臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
   遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年
因改號其津曰盾津。今云蓼津訛也。初孔舍衞之戰。有人隱於大樹而得兔難。仍指其樹曰。恩如母。時人因號其地曰母木邑。今云飫悶廼奇訛也。

 飫悶廼奇(母木)は、何が訛って母木となったのでしょうか。岩波文庫では母木邑が母木になったのを訛ったと注釈していますが、これを訛というのは強弁でしょうね。

 孔舍衞之戰で五瀬命が怪我をしています。その傷を治療したのでしょう。大国主の母が二比売を差し向けた故事にならったとか。母の乳汁。

タイトルRe^3: 母の木
記事No1978
投稿日: 2010/11/21(Sun) 10:13
投稿者大三元
>  飫悶廼奇(母木)は、何が訛って母木となったのでしょうか。岩波文庫では母木邑が母木になったのを訛ったと注釈していますが、これを訛というのは強弁でしょうね。

http://www.dai3gen.net/omonoki.htm
に私考を挙げておりますように「ハハキ」→「オモノキ」ではないか、と論じております。

タイトル木邑姓の出所
記事No2001
投稿日: 2011/02/01(Tue) 17:16
投稿者kimura   <kimura.ma@angel.ocn.ne.jp>
木邑姓の出所
木邑家の始祖は平康頼の伴った三人の家人の一人で同じ平姓を称していたと言われるが、康頼の二代目清基が承久の変で上皇方へ参加したとして、幕府から保司を解任され、三代目で絶家した。平家に対する世間の目は一層つめたく、森藤村にも居づらくなって来た。一族をまとめて森藤を引き払い、越前国足羽郡の縁者を頼って彼の地へ移って行った。
 世間の風は家人達にも冷たくなり、最早や平を名乗るのさえ気が引ける時世であった。木邑家の始祖の家人の平も改姓する事にした。平姓を捨てる事への無念さと意地があったようだ。平姓に引けを取らない、いや、平姓よりも良い姓をと考えたのであろう。木邑姓の木邑の出所を探していたのだが日本書紀から採用した様だ。
日本書紀巻第三の一に「初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。」

日本書紀から抜粋
初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki7.htm
(岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。)より抜粋
今度は、孔舎衞坂より生駒山を越えるルートを選択する。生駒山の西側の饒速日の所縁の地を押さえており、一気に饒速日山を攻略し、鳥見に迫ろうとしたのであろう。長髓彦は、知り尽くした地形であり、山を越え、孔舎衞坂において、手当り次第集めた兵を幾重にもずらりと並べ、上から順次、一斉に矢を射かけさせた。これが、五瀬命の肱と脛に当る。最初の戦闘は皇師側としては、手も足も出ぬものとなった。神霊のもつすぐれた力が、はげしい勢いであらわれる五瀬命が傷を負うたことは、守護神同志の戦いでもある世界では不吉な前兆でもあった。
天皇(すめらみこと)、之を憂へ、乃ち~策を冲衿に於て運めて曰はく。「今、我、是れ日~の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也。若じ。退き還へり弱を示す。~祇を禮び祭ひて、背に日~之威を負ひ、影の隨に壓ひ躡みなむ。此の如く、則ち曾て刃に血らずして、虜必らずや自から敗れなむ。」僉曰す。「然り。」是に於て、軍中に令して曰まふ。「且は停まれ。須(すべから)ず復たな進きそ。」乃ち軍を引きて還へる。虜亦敢へて逼めず。却りて草香之津に至り、盾を植てて雄誥を爲さむ。【雄誥 此云烏多鶏縻】因りて改めて其の津を號けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛れる也。初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。

タイトルRe: 木邑姓の出所
記事No2107
投稿日: 2013/07/12(Fri) 22:32
投稿者木邑   <kimura.ma@angel.ocn.ne.jp>
木邑姓の出所
 平治元年(1159年)凍てつく十二月大晦日の夜、平治の乱に敗れた源氏の棟梁源義朝(源頼朝の父)は東国を目指して落ち延びる途中に立ち寄った相伝の家人の長田館の湯殿でだまし討ちに遭い、首は恩賞目当てに平清盛に差し出された。一行とはぐれ彷徨っていた頼朝(13歳)や母常磐御前の懐に抱かれた今若・乙若・牛若(義経二歳)の幼い三兄弟は捕らえられ武門の習いとして殺される定めに在ったが、平頼盛の母親である池禅尼の必死の嘆願により命を救われた。
 また尾張国知多郡野間の荘には源義朝の墓があったが、だれも顧みる者もなく、荒れるに任せていた。国司平保盛の目代として平康頼はこの敵将の墓を修理し、堂を建て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進もした。
源平の戦いに勝利した頼朝は流人時代に受けていた恩義に報いた。
文治2年(1186年)に源頼朝によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命された平康頼と共に同じ平を名乗る者二人が行動を共にし家人の鶴田氏と四人が京より森藤の地に下向し善政を行ったと言う。
後に起こった承久の乱で平康頼の二代目清基が後鳥羽上皇方に味方して敗れ幕府から保司を解任され、三代目で絶家した。一族をまとめて森藤を引き払い、越前国足羽郡の縁者を頼って彼の地へ移って行った。
麻殖保で平を名乗っていた二人の者は百姓となることで生存する事だけは許されたが、百姓が平を名乗っていく事までは許されなかった。平を名乗っていた一人は木邑を名乗り、もう一人は田室を名乗った。
幕末の頃までこの姓は使われていた様であるが多くの者が尊王攘夷派として天狗党に加わり討幕派に加わった事から命を狙われ木邑氏は大姓である木村氏を名乗り田室氏は大姓である田村氏を名乗り幕府方の追跡を逃れた。幕末には凄惨な殺し合いが行われた様であり討幕に加わった多くの者が頸を切られまた獄死し義民として靖国神社に合祀されている。

木邑家の始祖は平康頼と行動を共にした二人の平を名乗る者の一人だと言われる。承久の乱で敗れ百姓となり生存だけは許されたが、平姓を捨てる事への無念さと意地があったようだ。平姓に引けを取らない、いや、平姓よりも良い姓をと考えたのであろう。木邑姓の木邑の出所を探していたのだが日本書紀から採用した様だ。
日本書紀巻第三の一に「初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。」

日本書紀から抜粋
初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki7.htm
(岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。)より抜粋
今度は、孔舎衞坂より生駒山を越えるルートを選択する。生駒山の西側の饒速日の所縁の地を押さえており、一気に饒速日山を攻略し、鳥見に迫ろうとしたのであろう。長髓彦は、知り尽くした地形であり、山を越え、孔舎衞坂において、手当り次第集めた兵を幾重にもずらりと並べ、上から順次、一斉に矢を射かけさせた。これが、五瀬命の肱と脛に当る。最初の戦闘は皇師側としては、手も足も出ぬものとなった。神霊のもつすぐれた力が、はげしい勢いであらわれる五瀬命が傷を負うたことは、守護神同志の戦いでもある世界では不吉な前兆でもあった。
天皇(すめらみこと)、之を憂へ、乃ち~策を冲衿に於て運めて曰はく。「今、我、是れ日~の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也。若じ。退き還へり弱を示す。~祇を禮び祭ひて、背に日~之威を負ひ、影の隨に壓ひ躡みなむ。此の如く、則ち曾て刃に血らずして、虜必らずや自から敗れなむ。」僉曰す。「然り。」是に於て、軍中に令して曰まふ。「且は停まれ。須(すべから)ず復たな進きそ。」乃ち軍を引きて還へる。虜亦敢へて逼めず。却りて草香之津に至り、盾を植てて雄誥を爲さむ。【雄誥 此云烏多鶏縻】因りて改めて其の津を號けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛れる也。初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。