「起源」雑考
起源、ってなんだ?

orig: 2003/08/19
rev2: 2003/08/24
2004/12/13 冒頭を小編集
しばしば、「日本人の起源」とか「日本語の起源」と言い、人の興味を引きつける。私も人後に落ちず、興味を持っていろんな本を読んできた。しかし、最近どうも、これらのテーマ、というか、設問、というか、「起源」論というものの実体が判らなくなってきた。そこらを提起してみよう。
まず「起源」という単語を考えてみるに、この語はどうやら単数概念で使われている。日本語には単複を区別する習慣が薄いが、多くの人が「日本語の起源」「日本人の起源」という時には、どうも、一つの言語、一つの民族なりを起源として想定しているようだ。

そこで、質問: さて、どこかの一民族を起源とすることが出来る日本人が何人居れば、その民族が日本人の起源なのだろうか。

それとも、日本人全員の起源をどこか一つに求めるのが「日本人の起源説」なのだろうか?

すでに諸々の研究(特に最近の分子人類学)が、一億あまりの日本人が如何に多様性に富んでいるかを示している。日本人全員が単一であるかの如くに思考して、その起源を単一の地域、民族に求めることの無意味さを考えて貰いたい。

日本人は多様であるから、その起源も多様である。そして、起源だと論ずる相手民族もまたその多様性に注意せねばならない。すなわち「日本人成立の複数要素」なら研究が出来るだろうが、やれ北だ、やれ南だ的な「日本人の起源」、十把一絡げな荒っぽい話はもうやめませんか。

[日本語の起源とは?]

「日本語の起源」とはどういうことか、を考えてみる。

それは、日本語の「系統」を決定して、それの最も古層(調査可能、立論可能な範囲での最古層)にあるものを言う、ということになろうか。

ヒトには父母に関わる二系統があるが、言語の系統(親)は一つである、と仮設して良いか。検討する言語が混合言語でない、ならば、親は一つであろう。混合言語ならば2以上ということになる。

さて、ある言語は混合言語か、そうでないか、に二分することとする。混合言語でない言語を単一(な)言語、と呼ぶことにする。日本語は混合言語ではない、とする立場は、日本語は単一言語である、という立場と等価である。

日本語が単一言語である、という論証はあるのだろうか? 論証抜きに前提にしてしまってはいまいか?

ここで、混合言語とは何かも詳述せずに、また、上記のように「二分」するという、雑駁な進め方をするが、ここでは、「日本語が混合言語である」という論証をするのではなく、「日本語は単一言語である」という前提には根拠が無いのではないか、という問題提起をすることが主眼である。

今までの日本語の起源探しは、日本語が単一言語であり、どこかの一言語に「起源」があるはずだ、という作業仮説で進められてきて、すべて失敗している、と断じてよいであろう。

なお、ある言語へ他の言語からの借用語の多寡と、ある言語が混合言語であるか否か、とは無関係であることとする(混合言語、と、借用語の関係をこのように把握する、という意味)。例えば如何に多くの外国語がしばしばカタカナや漢字で表記されて現代日本語で使われていようとも、それによって現代日本語の系統が変わる訳ではない。
つまり、借用語の多寡は、文化交流の濃密とは関係あるかもしれないが、言語の系統とは無関係である、という確認をしておきたい。日本語と外国語に似たような単語を見つけても、何故似ているのか、{同系統(親子関係がある)だから似ているのか、借用語だから(例、テレビ)似ているのか、単なる偶然なのか}、判定が必要である、ということだ。

そして、その判定の方法、というのが確立しているとは言えないのが難儀の原因なのだ。同系統であることを論証する方法として音韻法則、というのがある。印欧語族の同系論証の為に有効であったものだ。(比較対照する語を無制限にしては恣意的な語を比較することになるので、基礎語彙というものを定めて検討している。)しかし、多くの先達が、この音韻法則を適用して、日本語と周囲の言語を調べてみたが、同系の言語は見つかっていない。音韻法則が成り立つケースが余りに少ないのだ。

同系かどうかの判定は上のように印欧語族の論証に有効だった方法では、日本語と同系の言語探索には有効でなかった、と言えよう。日本語と同系の言語を見つけるための方法、というものを創立する必要があろう。

一方、借用語の判定は比較的容易に思えるが、それも方法がしっかりしている訳ではない。現代日本語が借用して略称している「パソコン」なんかは、借用語かどうかの判定方法を問うまでもなく、同時代に生きる者として自明、として良いだろう。

古代日本語における外国語の借用は漢語からの借用ならば、音読みされた単語が借用語であろうから、ある程度弁別できよう。しかし、中にはヤマト言葉に化けてしまっているらしいものもあり難しい。例えば、馬、梅、の ウマ、ウメは大和言葉かと思うと、どうも漢語の借用らしい。どうして、そう思うか、というと、コトバの音が似ていて、同じ対象を指し示すからだ。更に、馬、梅が中国から単語と共に渡来した、というのは、同意できそうだからだろう。

勿論、同系の場合にもコトバの音とそれが指し示す対象が合致することが多い。漢語と大和言葉は同系ではないから、借用ではないか、と考えるものだ。(漢語と大和言葉は同系でない、ということは異なる特徴を列挙することで納得できよう。)

日本語とアイヌ語の関係では、神とカムイ、なんかが良く話題に出るが、
・日本語とアイヌ語が同系だから、両者に似たような単語があるのか;
・借用なのか、借用ならどちらからどちらへなのか;
・偶然なのか、判断が難しい。

ラッコ、トナカイ、シシャモ、などは物(概念)と単語がアイヌ語世界から日本語世界へ来た、としても納得できよう。港=トマリ、温泉=ユ、なども借用のように見え、日本語世界からアイヌ語世界へ借用されたものとは思うのだが、判断の方法がしっかり構築されてない。

例えば、トマリ=港、に関して:日本語では「とまる」という動詞が普通に活用して使われていて、トマリはその名詞形だ。アイヌ語ではトマリという語は港という意味でしか使われていない。「だから」トマリは日本語からアイヌ語へ借用された語だ、という方法がありそうだが、それで良いのか。ある借用語について、その言語機能が多様である方の言語を親言語として、他の方が借用した、と一般化してよいのだろうか。そういう「方法」が構築されねばなるまい。

こうやって理屈を整理して行こうとすると、はて、同系とは何のことだ、音韻法則はどれほど成り立てば同系になり、それ以下だと同系でないのか、単一言語ってあるのか、混合言語の定義は何か、ということが定まっていないと起源の研究など出来はしない、ということに気が付く。

繰り返すが印欧語の諸語が同系である、と認められたのは相互にかなり厳格な音韻法則が多数の単語(一定の基礎語彙の範囲で)においてなりたったこと、と動詞変化の基本的な共通性、あたりであろう。その方法を日本語と同系な言語の探索に応用してきたが、決定打がないのである。

何か違ったアプローチを開発しないといけないようだ。

起源・雑考2[日本人の起源とは?]へ続く
余談:
また「系統」(「・・系」)、「族」という語がある。これらが意味すべきことは、ヒトの場合には、親子関係(それが何世代離れていても・・・)でつながっていることを指し示す、と考えて良いだろう。少なくとも、広義としては良いだろう。しかし、ある特定の人が、父系に属していると認識されていて、母系に属しているという認識が欠如している場合(また、その逆)がある。その人が何(氏)系(族)に属しているのかに就いては、父系か母系の一方だけを言うことが多い。このように「・・系」「・・族」が狭義に(父母の一方だけ)に使われることも意識しておかねばなるまい。

しかし、時折、なんとなく似ているものの集合を「・・系」ということがある。多分、「類型」という概念と混乱しているのかもしれない。

やはり、例えば「物部系」とは「物部」と確定出来る人と親子関係(それが何世代離れていても・・・)を認識した人々を含む集合、を意味すべきだろう。つまり例えば「物部族」と「物部系」とは同義語であり、「物部族」とかどうか判らないが、なんとなく近そうなので「物部系」と呼ぶのはやめませんか、という提起である。

但し、折角、二つの語、表現方法があるのに、同義語としてしまうのはもったいない。折角異なる文字で示すのだから異なる概念を示すことにしよう、という立場もあると思う。その場合には「物部系」とある場合には、「物部族」とするには自信がないので、曖昧にしている、と解釈することになろう。

言語に翻ってみれば、しばしば「アルタイ系言語」という表現を見る。これは、必ずしも系統関係が充分に認められた言語の集合ではない。なんとなく近そうな言語の集合である。「印欧語族」とは良く使われる表現で、それに属している諸言語が同系である、と考えられるからだ。「アルタイ語族」とはなかなか書ききれない(使う人も居るだろうが)のは、この集合が果たして同系言語の集合なのか、不確かだからだ。

起源・雑考2[日本人種?の起源]
起源・雑考3「借用語]
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