小泉保著「縄文語の発見」に就いて

orig: 98/07/
青土社から「縄文語の発見」小泉保著、が出ました。(1998/6)。かねてから、この方面に関心のある小生としては飛びつくように買い求めました。読後感ないしアマチュアながら、また、建設的でありたいと願いながらの、且つ、僭越ながらの見解を申し述べたいと思います。

この本の一番の核は、

    日本各地の方言から、その祖となった語形を推定するところ
    そしてその祖語を縄文語である、
と推定するところだと思います。

具体的にはトンボを意味するアキツが東北から沖縄までどのように分布して、どのような発音をされているか、から「アケズの原形『アゲンヅ』が再構され」ます。(p154)ここら辺は、ははぁ、プロの言語学者はこのように進めるのか、と流石と思います。(なお、正確を期す為に:著書では、「アゲンツ」の「ゲ」の左に半濁点、「ン」は小文字、が使われてます。)

次いで、このようにして得られた「原形」が弥生語ではなく縄文語である、とされる訳ですが、その論拠を拝見するところ、どうも首肯しきれないものがあります。

著者曰く:
「九州北部に上陸した渡来人の言語がわずか数百年にして、北は津軽の岬から南は八重山群島の先まで波及し、先住の縄文人の言語に入れ替わったという臆説は信じがたい。しかも、渡来人の数はそれほど多くないという。」(中略)「その人たちの言語が(縄文語)が、二千年ほど前に外来者によって突如一変させられたとは到底考えられない。」(p124)

p216には、混合言語が形成される為には「先住民に匹敵する量の外来者を仮定した場合にのみ可能である」としています。

小生思うに:
「わずか数百年」に関して言えば、延暦18年(西暦799年)の時点でも「陸奥国新田郡百姓弓削部虎麻呂・妻丈部小広刀自女が久しく賊地に住みよく夷語を習い」しばしば虚言をもって夷俘の心を騒動した・・・・」と言う記録があり(日本後紀)、この時点、つまり八百年ほど経っても当時の日本語は「津軽の岬」には到達して居なかったことが判ります。

縄文語世界の言語が弥生語に「突如一変」したという論は未だに見たことがないけど、著者は「数百年」でも「臆説」だとする。混合言語形成の為には先住民に匹敵する量の外来者を要するとされてますが、有名な「銅島」に形成された「混合言語」の例では、アレウト人男女300人の島へロシア人男性だけが30人来て、100年後には混合言語が出来上がっていた、というものがあります。(参照:村山七郎・大林太良共著「日本語の起源」弘文堂 1973、p10-12)つまり先住民の1割程度の移住民でも「数百年」どころか100年の後に混合言語が形成された例があります。

また、著者には「縄文語」と「弥生語」は全く異なった言語である、との想定・前提があるようですが(「入れ替わった」との表現から、、、)、「弥生語」は「縄文語と渡来語の混合言語」との視点も未だ否定出来ないものがあると思います。

「渡来人の数」に関して言えば、小山修三さんの縄文・弥生・古墳時代の地域別人口推定、それがどのようにして起こり得たかをシミュレーションした埴原和郎さんのワークに一切触れていないのが残念です。埴原さんは、あるいは百万人単位の渡来人が入って来なければ、小山さんの推計人口推移にはならない、百万人と言う数の絶対値が独り歩きしては困るが、渡来人の数が「無視できるほど」としてきた論者達へ、そうではなさそうだよ、と警告しています。

この点からも、縄文語と渡来語による混合言語、弥生語、が出来たと想定するのが良いのではないかと思う。

一方著書の最初の方では、著者曰く:
「これら縄文のゴブリン(精霊)たち{亀ケ岡の遮光型土偶など}は全国的にあまねく愛玩崇拝されていたが、後期{縄文後期}から晩期ともなると、弥生人が現れその{弥生人の}カミガミの前に屈伏せざるをえなかった。この時期における発掘の内容から推して、一時九州で勢力を盛り返したが、、ここで衰微すると一気に東へ押しやられ、しばらくは中部地方で抵抗線を敷いたが、これもむなしく総崩れの形で東北の一隅へ追いやられて、そこで弥生末期まで命脈を保っていたようである。弥生人のカミガミが縄文人の信仰の象徴ともいえる土偶たちを駆逐していった足取りは、とりもなおさず弥生文化が縄文文化と交代していった道筋であった。」(p31)

「二千年ほど前に、縄文文化は新興の弥生文化の勢力に押し崩され吸収されてしまった。言語においては日本の片隅に押しやられてしまったのではないかと考えられる。」(p32)と書いています。 { }内は引用者の補足。

小生思うに:
著書のここでの考えは、弥生語が縄文語を駆逐した、みたいな考え方らしい。「言語においては日本の片隅に押しやられてしまったのではないかと考えられる」ともしている。しかしながら、読み進むと上記のように話が違ってくる。

著者曰く:
「縄文社会はかなり均等化していたと考えざるをえない。もちろん地域差はあったにしろ、もはや異質言語の乱立という状態は想定しにくいと思う。異質言語といえば、アイヌ語がある。異質であるがためにアイヌ人は隔離された状態で縄文土器をもたず、十二世紀に入ってはじめて独自の文化を形成するに至ったのである。(p30)

小生思うに:
「アイヌ人」の定義の問題がありそう。縄文土器は北海道にまで行われていたわけだが、それを作った人達を何人と呼ぼうとして居られるのだろう。縄文人と呼んで良いだろう。して、その頃「アイヌ人」は既に居たのだろうか。つまり、その頃に「縄文人」とは異なる「アイヌ人」が居たか居なかったかを考えようとして居られるのだろうか。

それとも、「アイヌ人」とは、縄文文化ではなく、「アイヌ文化」の担い手を指す、とするのだろうか。そして、アイヌ文化は12世紀(14世紀とする人もあるようだが)から形成される。だから、この定義で行くなら、縄文時代には「12世紀に成立するアイヌ文化を担うアイヌ人」は居ない、のは当たり前となる。

ここで、それではアイヌ文化の担い手は12世紀にどこかから来たのだろうか。実は、その担い手の先祖はずっと昔から日本列島に居たのではないか、つまり、縄文・続縄文・擦文文化を担って、オホーツク文化の影響は受けたものの、そして、その時点で「アイヌ文化」が成立したのだろうが、言語・血統の大筋には大きく変化を蒙らなかった、というのが言語の面からも、人類学的最近の知見からも妥当に思われます。

著者曰く:
「人類学側では、おおよそ次のような結論に落ち着いている」として、池田次郎著「日本人の起源」1982から「(縄文時代人と古墳時代人との間で)文化が代わり、それに伴い骨の形質が変わっても、民族そのものの本質に変化はなかったとみなすのが至当であろう。つまり、弥生時代においても、またそれ以後においても、日本人の体質を一変するほどの大規模な混血はなく、日本人は石器時代から現代にいたるまで、遺伝的に連続しているのである。」を引用して「要するに、日本人には縄文時代、弥生時代、現代、まで体質を一変させるほどの大規模な混血はなかった。つまり、異質の民族が大挙して日本列島に侵入し、先住民を征服した様子はなかったというのである。」としている。(p130-131)

小生思うに:
上記のような「結論に落ち着いている」とは到底思えない。最近の人類学の知見に拠ると、ミトコンドリアDNA,ATLウィルス、頭骨の小変異などから、いわゆる日本人には大きく分けて二種類あるらしい、これが現在のパラダイムだと思う。自分も時々陥る陥穽ではあるが、日本人、アイヌ人、などがそれぞれ単一であると考えていては危ない。石器時代から縄文時代を経てずーっとその血統を濃く継いでいる個体もあろうし、縄文ベースの上に渡来人の血が濃厚に入っている(弥生系と言って良い)個体も、そして渡来人の血を色濃く継承している個体も、現在の日本には混在しているのだ、という当たり前のようなことが、今ようやく科学的にも立証されつつあるのだと考えるのではないでしょうか。

「異質の民族が大挙して日本列島に侵入し、先住民を征服した様子はなかった」という説を引用していますが、古事記や日本書紀に遺されている各種の討伐の記録(伝承)をどう考えておられるのでしょうか。私にとっては、天から降って来たニニギノミコトが先住民のコノハナサクヤ姫と娶ったり、スサノヲとクシナダ姫の婚姻、ニギハヤヒと長髄彦の妹との婚姻、とか、タケミカツチによる出雲討伐、ミホツ姫を大物主に娶わせる、とか、神武天皇が長髄彦を、兄磯城を、兄猾を等々打ち破ったり、景行天皇・ヤマトタケルの熊襲征伐、蝦夷退治など多数の征服・混血の伝承が無視されているのが理解できません。


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