倭迹迹日百襲姫の周辺
orig: 96/05/22
rev 6: 2005/02/10

倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)という不思議な名前に興味を持ち、色々調べてみました。先ず、この姫の出自に関する諸説を記紀に求めておきます。なお、トトヒは或はトトビ、と濁るのかも知れませんが、煩雑を避ける為に以下、主として清音で表記します。

出典
日本書紀
孝霊天皇 (第7代、大日本根子彦太瓊)
母・義母
倭国香媛
細媛命(磯城縣主大目の娘)
本人とその世代倭迹迹日百襲姫命彦五十狭芹彦命(亦名、吉備津彦命)倭迹迹稚屋姫命
孝元天皇
(第8代、大日本根子彦国牽)
欝色謎命
本人の次世代大彦命、開化天皇(第9代、稚日本根子彦大日日)、倭迹迹姫命
注記倭国香媛(亦名、某姉(はへいろね))細媛命(磯城縣主大目の娘)に関しては(一説、春日千乳早山香媛。一説、十市縣主等祖女、眞舌媛)がある
短い名前の、倭迹迹姫(考元と欝色謎命の子)、は主題の、倭迹迹日百襲姫と同一、とされ即ち、父親に関して2説(孝霊か考元か)あるとされています。

倭迹迹日百襲姫命は、JR岡山駅に近い岡山神社の祭神となっている。吉備津彦との関連によるものでしょう。

古事記
(父)孝霊天皇(第7代、大倭根子日子賦斗邇命)
(母)意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
細比賣(十市縣主祖、大目の娘)春日千千速眞若比賣
(本人)夜麻登登母母曾毘賣命日子刺肩別命比古伊佐勢理毘古命(亦名、大吉備津日子命)倭飛羽矢若屋比賣
考元天皇
内色許賣命
千千速比賣命
開化天皇
(若倭根子日子大毘毘命)ほか


主役の姫の名前が、
日本書紀倭迹迹日百襲姫ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ
古事記夜麻登登母母曾毘賣命ヤマ ・ トト・ ・モモソ・ビメ

と読める表記がなされており、古事記の方では、「ト」が一つ少ないことと、「日」に対応する「ヒ」の音が抜けているのに気がつきます。伝承の違いに依る脱漏なのでしょうが、それは、一方では、原義が忘れられたことを示唆しているように思えます。

百襲、は幾つかの読みが可能ですが、古事記の表記(「母母曾」)に従って、「モモソ」と読まれて来ています。(「百」の訓がモモ、「襲」は熊襲のソ、でもあります)。一方、百を「ホ、(千五百をチイホと読む)」と読む例もあり、それを採ると、古事記とは整合しませんが、「ホソ」となり、十市縣主の祖である大目の娘の名前「細姫」に通じる様に見えます。

「細姫」の「細」は「ホソ」と読むのか「クハシ」と読むのか定まっていないようですが、「百襲姫」周辺に「細姫」が伝えられていることと、「百襲姫」に「ホソ姫」と云う読みが有り得ることは注意しておいて良いと思われます。

それにしても、親が大目で娘が細目、ってのも面白いですね。なお、「祖」と云うのは女性のことだそうですので、大目は母親なんでしょうね。 (アイヌ語で「細い」を hutne と云うのですが「太い」と「細い」をつなぎそうな気がしていますが、確信はありません。)

「モモソ」の部分に就いて古事記の表記は「母母曾」であります。古代日本語の特殊仮名遣い(甲類・乙類のある音がある)において「モ」に就いては古事記だけが甲乙の区別をしています。書紀・万葉集では分別されていない。そして古事記で「100」の意味を表す場合の「モモ」は「毛毛」と書かれています。「毛」は甲類です。そして「母」が乙類に使われています。従って、古事記が「母母曾」と表記した時に「母母」の部分に関しては「100」という意味合いではなかったことになります。

それを考えると日本書紀の「百襲」の「百」も数値の「100」と捉えてはいけない、ということになりませんでしょうか。或は本来「100」の意味なのに古事記が甲乙を取り違えたのでしょうか。ここら辺は古代日本語の性格を探るのに非常に重要なことが隠されているようで、引き続き検討したいと思ってます。

倭迹迹日百襲姫は、どう区切って読んだら良いのか。まぁ、「ヤマト」で一つ区切るの は良いでしょうね。

次は、「トトヒ」の3音で一旦区切って良いでしょうが、それを更に区切るとすると、「ト・トヒ」「トト・ヒ」のどちらでしょうか。最初の「ト」で区切ると、この「ト」は「倭」を「ヤマト」と間違いなく読ませる為の、送り仮名でしょうか。そうすると「トビ」が抽出出来るので、「鳥見」「鵄」「登美」などの表記のある、長髓彦がいた地域の名前が浮かび上がってきます。まさか、最初の方の「ト」は「& (and)」の意味ではないでしょうねぇ、(Yamato and Tobi?)冒頭の出自に戻る

「トヒ」とか「トビ」を引っ張り出せると、この姫様の妹の「倭羽矢若屋比賣」の「飛」とも整合するのでキレイなのですが、どうでしょう。

それにしても、この妹姫の名前も「倭飛ハヤワカヤ比賣」とすると、孝霊天皇の妃の一人であるとの一説のある、「春日千乳早山香媛」(春日チチ・ハヤマカ媛)、古事記なら、春日千千速眞若比賣(春日チチ・ハヤマワカ比賣)と酷似してないでしょうか。ここの「千乳」は通例に従って「チチ」と読んで置きましたが、これだって、「チチチ」と読むべきなのかも知れない、上記のように「トトト」の例もあることだし。

速日考
マヤワカ考 も参考になる。

だからどうした、って? まぁ、ここでも系図の乱れ、というか、人名の伝承にかなりの音の揺れが観察されますねぇ、って事です。だからどうした、って? まぁ、面白いじゃぁありませんか。。。

さて、一方、「トト」と区切らなければならないとしたら、どうなるんでしょう。どうも和語では意味がはかりかねます。アイヌ語なら「母親(千歳方言)、乳房(他の方言)」の意味にとれますから、「国母」的な感覚の命名か、とも思えます。しかし他の部分もアイヌ語で解けないと説得力が今一つですね。

しかし古事記では、夜麻登登母母曾毘賣命、の母親が、意富夜麻登玖迩阿禮比賣命、で、これは、「大倭国を生む」と云う意味で、母子で「国母」のイメージが窺える事にはなります。更に、異母兄(弟?)が、孝元天皇(第8代、大日本根子彦国牽)。出雲神話の国引きを想起させられる名前ですね。

冒頭の出自に戻る


さて、第7代孝霊天皇の娘である「倭迹迹日百襲姫」ですが、第8代孝元、第9代開化、第10代崇神と降って行くと、日本書紀に再度登場します。もう、かなりの年齢でしょう。神浅茅原(カムアサヂハラ)で神憑りします。(崇神7年2月15日)次いで、同年8月7日には、「倭迹速神浅茅原目妙姫」(ヤマト・トハヤ・カムアサヂハラ・マクハシ・ヒメ)たちが夢をみた話があります。

    浅茅原、は「アサヂハラ」と、読みます。比定地は桜井市笠の浅茅原か、同市の茅原か、とされてます。顕宗紀に「アサヂハラ」と読むべき根拠があります。

「倭迹速神浅茅原目妙姫」は、「倭迹迹日百襲姫」のこととされています。とすると、最初の3文字「倭迹速」と「倭迹迹」が対応しそうです。「速」と「迹」の字が似ているので誤写の可能性もあるかとも思われますが、この姫の周辺に「早・速」の字の付いた名前も散見されることもあり、誤写とも言い切れません。

それで、「倭迹速」を考えてみます。「疾く」という言葉を介在して「迹」の音と「速」の意味がつながってきます。(上述と類似の指摘になりますが、春日千千速眞若比賣(春日チチ・ハヤマワカ比賣)の「チチハヤ」とここの「(ヤマ)ト・トハヤ」との酷似が注目されます。)

「神浅茅原」は神懸かりした場所に因んで付加された名辞でしょう。後半の「目妙姫」と「百襲姫」の対応を考えてみますと、上にも述べたように、「百襲」は「ホソ」とも読める、「細」は「ホソ」とも「クハシ」とも読める。「妙」は「クハシ」と読んでいる。と言うわけで、どうやら、百襲は「ホソ」と読むべきで「細目」の事の様に思えてきました。

そういえば、この姫様は「ホト」を衝いて亡くなってしまったり(崇神紀10年)、配偶者とされる大物主神は三輪山が根拠地で、古事記の方では活玉依姫が奥さんなのだが、大物主の本性を探ろうとした時に「ヘソ・ヲマ」を針に通して翌朝その麻糸をたどって三輪山に至ります。ここの「ヘソ」を「臍」の意味としますと、古語にはこれを「ホソ」とも云いましたので、「ホト」「ホソ」の類似音に因縁がありそうです。やはり、ホソ姫、と読むのでしょうか。なお、「サ行」と「タ行」が混乱している例は既に幾つか挙げられており(イタサ、イナサ、イササなど)「ホト」と「ホソ」を類字音として観察するには根拠があります。(日本語の s音と t音は共に、ts音に遡れるのではないか、と考えられます。)

更に、元気を出して云うと、「日百襲」の部分は実は「目百襲」で原義は「目細」だったのかなと、別名・別伝の「目妙」から出発して、上記の事どもから推理を進めています。

でも、そうすると、「迹日」とつなげて「鳥見」などの地名と関連づける事が出来なく なってしまいますが。。。。

2005/02/10追記:
「マクハシ」が原点でそれを「目妙」と書いた。それを「目細」と書いたものがあって(仮定)「日細」という誤写段階を経て「日百襲」となったのか、という印象が強い。ここで、「マクハシ」は原義は「目が美しい」「目に美しい」あたりであろうが、「マクハヒ」(目交→婚姻)との語呂合わせ・暗喩・意識を窺うことが出来よう。このことは、この姫様を大物主に配した伝承に現れているように見える。周辺の古語としては「マク(娶)」「ホシ(欲し)」「ミマクホシ(見マク欲し)」「ハシ(愛し){ハシヅマ}」「ムコ(モコ)(婿):向く、と同源か(『時代別国語大辞典上代編』)」:

「マキムク」の語義も、これらの語彙から攻めてみるのが良さそうだ。すなわち、「婚する婿」のように。

魏志の「泄謨觚」もこれか?


引き続き、崇神7年8月7日の記事に出てくる、「倭迹速神浅茅原目妙姫」(ヤマト・トハヤ・カムアサヂハラ・マクハシ・ヒメ)の最初の3文字「倭迹速」に就いて調べておりました。

即ち上記で、「倭迹速」と、倭迹迹日百襲姫、の最初の3文字「倭迹迹」とから、「迹」と「速」が同じらしい、としました。それを、「速」の意味から→「疾く」、「疾く」の音から→「迹」、と関連づけてみましたが、平凡社世界大百科辞典の「カナ」の項に出ている「上代の表音文字一覧表」を見ていたら、「速」が「甲類のト」として、「刀、斗」などと共にリストされてました。使用例は万葉集にあり、日本書紀には無いようです。(万葉集 #1718に「阿速之水門、あどのみなと」と使われている。)

さて、こうなると面白いのは、「速」は甲類のト、「迹」は乙類のト、であり、一般に甲類と乙類は一語の中には共存しない筈、なので、これは何か説明を付けねばなりません。

試論1:やはり「速」は書き間違い・写し違いで、「迹」であるべきなのだ。
試論2:「速」は「ト(甲)」と読んでは不可で、「ハヤ」と読むべきだ。
試論3:何らかの事情による特例なのだ。

例に依って(?)アイヌ語を調べておりました。以前に「ト」は「日」の意味を意識していました。この時、実は、

「トト」は「日日」
「日日」は「二日」
「二日」は「明日」(明日は「アス、アスカ?」)

というストーリーを考えていました。(南洋系の言語で、複数を表すときに、同語を繰り返す、という習慣があり、アイヌ語が南洋系の言語でありそう、との説から。但し、実際にアイヌ語で複数を作るのに、繰り返しをやるのかは不明でした。)

ところが、「2」は tu、「日」は to、なのです。つまり、アイヌ語の「2日」を意味する tu-toを、和語の音韻習慣で捉えようとすると、「トゥト」と書く習慣が無かった当時、甲類乙類の違いを援用したのではないか、と推理しました。(念のため申し添えますが、「ツ」は tsu であり、tu ではないので「津、都」などの字は使わなかったのだ、と。即ち、tu-toを「迹速」と表記したのが原型で、甲類乙類が乱れるに従い「迹迹」や「登登」という具合に、乙類に合流してしまったのではないでしょうか。)

そうすると、「迹迹日」の「日」は、前述のように「目」などではなく、「日」で正し く、そして、その読みは「ヒ」かも知れないし「カ」かも知れない、と気がつきました。(五十日を、イカ、と読む例などから、可能ではあります。)

そうすると、「迹迹日」は「トゥト」を意訳して「2日・日」と捉え、それを「明日・カ」、「アスカ」と翻訳出来そうです。つまり、試論3:の特例、とは外国語(?)の翻字、という特例ではないか、と思えてきました。そうすると、「飛鳥」も「トト」とか「トトリ」≒「トトビ」≒「トトヒ」を写したもので原義が「2日・日」(ここの「日」は「ヒ」として)に遡れるのではないでしょうか。だから、「飛鳥」と書いて「アスカ」と読むのだ、と。

オリジナルで、この地域を、tu-to-ka と呼んだのか、tu-to-hi と云ったのか、最後の音節に関してもう少し研究しないといけませんが、なんか、とっかかりが付いたような気がしています。また、「一昨日」の「おととひ」「おとつひ」も二日前、ですから関係ありそうに思われます。

トトビ≒トトリは、一方、オモノキ考にも上げた、オモノキ←母の木←「トト・ニ」が「トト・リ」とも絡んできて、面白いことになっております。

ただ、英語の tomorrow は、アイヌ語では nisatta というので、その点でも、果たして、two days が tomorrow の意味を持っていたか、せめて the second day の意味でもあったか、との疑問も残ります。

この路線をチャント進めて行くと、何故、飛鳥(トトリがトトビ・トトカなどと読み替えられて)を明日香(アスカ)と読むに至ったのか、が説明できそうに思えませんか?

色々試行錯誤してますんで、自説(全部仮説です)相互に矛盾と云うか、両立はしないものが有るのは承知しております。あしからず。


「迹速」が「迹迹」に対応することから、これらのオリジナルな読みは tu-to ではなかったのだろうか、そして、その意味は「明日」であったのではなかろうか、と上に書きました。

そしたら、日本語にも「つと」と云う言葉があるんですね。正確には「語根」とすべきでしょうが、「つとに(朝早く)」「つとめて(翌朝、早朝)」「務める」などでは「つと」が「同根」とあります。(三省堂、新明解 古語辞典)

tu-to が「翌朝・明朝」の意味を持った和語に姿を変えているように窺えます。「ツ・ト考」もご覧ください。

今までも古代の人名・地名等の一部がアイヌ語起源ではないか、との半信半疑で調べて いるのですが、今度のはチョット手ごたえが感じられます。(^_^)


おまけ、ですが、応神紀19年条に吉野の国樔の話が出てます。そこに、彼らが蛙の煮たものを美味とする、それを「毛彌」と云う、とあります。「モミ」は mo-mim =小さい・肉、かも知れないなぁ、と(鹿や熊の肉に較べれば蛙の肉は小さい)と、ほくそえんで居ります。応神朝に記録された「非和語」の言語資料として貴重だと思われます。

倭迹迹日百襲姫の周辺・2
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