タイトル | : 木邑姓の出所 |
投稿日 | : 2011/02/01(Tue) 17:16 |
投稿者 | : kimura <kimura.ma@angel.ocn.ne.jp> |
木邑姓の出所
木邑家の始祖は平康頼の伴った三人の家人の一人で同じ平姓を称していたと言われるが、康頼の二代目清基が承久の変で上皇方へ参加したとして、幕府から保司を解任され、三代目で絶家した。平家に対する世間の目は一層つめたく、森藤村にも居づらくなって来た。一族をまとめて森藤を引き払い、越前国足羽郡の縁者を頼って彼の地へ移って行った。
世間の風は家人達にも冷たくなり、最早や平を名乗るのさえ気が引ける時世であった。木邑家の始祖の家人の平も改姓する事にした。平姓を捨てる事への無念さと意地があったようだ。平姓に引けを取らない、いや、平姓よりも良い姓をと考えたのであろう。木邑姓の木邑の出所を探していたのだが日本書紀から採用した様だ。
日本書紀巻第三の一に「初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。」
日本書紀から抜粋
初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki7.htm
(岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。)より抜粋
今度は、孔舎衞坂より生駒山を越えるルートを選択する。生駒山の西側の饒速日の所縁の地を押さえており、一気に饒速日山を攻略し、鳥見に迫ろうとしたのであろう。長髓彦は、知り尽くした地形であり、山を越え、孔舎衞坂において、手当り次第集めた兵を幾重にもずらりと並べ、上から順次、一斉に矢を射かけさせた。これが、五瀬命の肱と脛に当る。最初の戦闘は皇師側としては、手も足も出ぬものとなった。神霊のもつすぐれた力が、はげしい勢いであらわれる五瀬命が傷を負うたことは、守護神同志の戦いでもある世界では不吉な前兆でもあった。
天皇(すめらみこと)、之を憂へ、乃ち~策を冲衿に於て運めて曰はく。「今、我、是れ日~の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也。若じ。退き還へり弱を示す。~祇を禮び祭ひて、背に日~之威を負ひ、影の隨に壓ひ躡みなむ。此の如く、則ち曾て刃に血らずして、虜必らずや自から敗れなむ。」僉曰す。「然り。」是に於て、軍中に令して曰まふ。「且は停まれ。須(すべから)ず復たな進きそ。」乃ち軍を引きて還へる。虜亦敢へて逼めず。却りて草香之津に至り、盾を植てて雄誥を爲さむ。【雄誥 此云烏多鶏縻】因りて改めて其の津を號けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛れる也。初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。